ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

物語の続きを。

 

時計の針は、午後一時を過ぎようとしていた。

 

「ねえ、オムレツ食べたい」

「お、リクエストなんてめずらしいねえー、作るかー」

 

章吾さんはわたしに優しい。半年前に越してきたこのアパートの一階は本屋さんで、章吾さんはそこで働いている。レジを打ったり入荷した本を並べる以外は日がな一日なにかしら読んでいて、アルバイトの子がお店に来てからは時々部屋に訪ねてくるようになった。

 

「芽衣ちゃん、真ん中にチーズ入れる?」

「うん」

 

章吾さんがパチッと換気扇のスイッチを入れて、気味の悪い音が部屋に広がる。不自然な空気の流れが、わたしはとても嫌いだった。音はともかくとして、怖くてたまらないキッチンの上側を見ないようにそっと顔をあげた。卵の殻が多分4個分、まな板の横に白くまとまっていて、もうすでに溶かれた卵はフライパンの中だった。章吾さんがシャツの袖を七分くらいにまくって、ご機嫌そうにオムレツの形を器用に整えている。机の上には昨日、階下で買ってきた本が積まれている。50円で売り叩かれていた適当な恋愛小説を手に取る。最近わたしはこういうちゃちな恋ばかり集めていて、取るに足らない自分の人生を噂話で埋めるような、給湯室に集まるOLのような、しなくても良さそうなことに首を突っ込んでいくひとと同じことをするようになった。そうやってよそ見をしていれば、気がまぎれるような気がしていた。

 

「章吾さん、彼女いたことある?」

 

ペラペラとページを鳴かせながら視線を向けた。章吾さんはご機嫌なままフライパンの中身をフライ返しでつついている。

 

「いたよ、ずっと昔のことだけど」

「かわいかった?」

「僕にとってはね。他の人がどう思ってたかは知らないし、そんなことはどうでもいい」

「なんで別れちゃったの?」

「僕はあの子を見失ったんだよ、突然何を考えているのか分からなくなった」

 

色鮮やかに焼きあがったオムレツがお皿の上にフワリと乗せられた。芽衣ちゃんはケチャップじゃなくて、胡椒だったね、とまるでひとりごとのように確認をして章吾さんはプラスチックの安っぽいミルを黄色の真上でひねった。

 

「あの子と僕の物語は完結しちゃったんだ。あとはもう、読み返すしかない」

「でもまだそれぞれの人生は終わってないよ?どうして完結だなんて言うの?」

 

手に持っていた小説はいつのまにか傍らに置かれていて、閉じていた。なんでもない、ちゃちな恋愛の話。誰かの恋の話は、他人にとってはそんな程度のものなのかもしれない。すこし続きが気になっても、次の瞬間には忘れてしまうほど、なんでもないことのようだった。

 

「すっかり嫌になって忘れてしまうより、好きな場面をなんども読み返したほうが楽しいだろ。そんなものだよ、本も、昔の彼女も。さあ、芽衣ちゃんの食べたかったオムレツだよ」

 

あたたかいオムレツが机の上に二本のスプーンと一緒に並べられた。

 

「小説には神の視点、っていう描きかたがあるんだ。主人公の視点でもない、他の登場人物の視点でもない、なぜかすべてのことを知っていて、それを違和感なく語っていく誰かのおかげでストーリーが進むんだ。その神様みたいに、客観的にあの子のことを思い出して、僕という人物から離れて僕自身のことを見ると反省しなくちゃいけないことがたくさん見えてくるんだよ」

「なんか、納得いかない」

「まあ、大したことじゃないさ、こんなこと無理にしなくたって別にいいんだから。ほら、食べようね」

 

章吾さんは笑顔を絶やさない。オムレツをすくいながら笑顔の理由を考えたけれど、なにも分からなかった。でも、章吾さんが「あの子」との物語をいまもずっと読み返している理由はなんとなくわかった。

 

「おいしいね」

「ありがとう。食べ終わったら、僕は店に戻るから。遊びに来てもいいよ」

「すぐそこだしね」

「うん、すぐそこだから」

 

この穏やかで奇妙な日常が完結しないことを、この物語の続きを読めるようにと祈りながら、わたしはできるだけゆっくり、スプーンを口に運んだ。

 

 
妖怪三題噺さま http://twitter.com/3dai_yokai
本日のお題は「卵」「神様」「机」でした。