ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

うとうと、から目を覚ますもの

 

わたしは誰かの声を聴いていることと、触れられることがとても好き。語弊がありそうなので注釈を入れると、「好きなひと」の声を電話なり、会って話すなりして聴くこと。「好きなひと」に頭を撫でてもらったり、手を繋いだり、抱きしめてもらったりすること。性的なことじゃないんです、ちょうど、親がこどもにするようなーーわたしは両親からではなかったけれどーー触れるというイベントが毎回、いちいち、とてつもない感動を伴っている。ニュアンスが伝わったらいいなというくらいの淡い気持ちだけど、わたしの「好きなひと」っていうのは恋人に限られたものではないんです。

 

あったかい、っていうのはものすごい感動なんです。それはカイロとかストーブとか、ココアの入ったマグカップとかでもあることなんだけど、それらよりももっともっと、ずっとすごいのは人の手なんです。普段ならほとんど触れることのないもので、触れようと手を伸ばしていいものでもない。すこし前の記事にリンクしているんだけど、性別を問わず「保護者」たちが与えてくれたもののひとつでもあるんです。手を繋ぐって、こんなに素敵なものだったのか。と、いまでもわたしの中で何度でも鮮やかな感動を引き起こしてくれる。どのくらいすごいかというと、カメラを通して見ているような視界がなくなるくらい。ピントがしっかり合って、ぼんやりと白黒にしか見えなかった世界が瞬く間に色づくくらい。うまく説明できないのがとても悔しいんだけど、わたしのなかでは、この感覚は「目覚めた」という言葉で表される。普段はほとんど「眠って」いるんです。

 

わたしの奥底で××ちゃんという名前のあの子は眠っていて起きないんですけど、みっちゃんたちも同じように普段はまどろみのなかで生きている。考えることをやめている状態を「停止」だと思っていたのですが、どうも「まどろんでいる」だけのようです。そこから目覚めさせるのがとても上手な人によって、「素材のひと」は活かされるし、みっちゃんたちは活発に考え始めたりなにかを書き留めたりする。でも「目覚め」させるのは「触れられること」なんだなあ、と。

 

本来ならちいさいときに卒業しているはずのことだと思うんですよね。これって「ママ、抱っこ!」とあまり変わらないですから。わたしが「大人」になるまでは、もう少しかかりそうです。おしまい。