ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

みっちゃんのゆがみ。 「保護者」と呼ばれる友人たちがいたことについて

(ややこしくなりそうだからあまり注釈は好きではないのだけれど、現在もわたしの周囲では「保護者」という呼ばれ方が浸透しているので、こう呼ばれていた人たちは本当は保護者でもなんでもないし、本人たちが「保護者」的なことを意図的にしていたのかとか本当はどんなつもりでやっていたかというのはいったんそっと置いといて、便宜上「保護者たち」と呼びます)

 

わたしには高校生のときからなぜか「保護者」と呼ばれるひとがずっとそばにいる。歳は同じか少し上で、あるときは女の子で、あるときは男の子で、大学生のときお付き合いしていたひともそう呼ばれていたことがあった。

 

「保護者」っていう呼び方は、わたしとその友人や恋人との接し方を見て周囲が自然と言い出したことで、たぶんそんな風に見えたんだと思う。手を引いて連れていき、何か食べさせ、むずかしいことがあれば教えながらやってみせて、ときにはお金すら工面してくれた(もちろんお金は一生懸命稼いで急いで返した)。わたしもわたしでこう扱われてもなんとも思わず受け入れてしまうし(そもそも受け入れないという選択肢がなかったというのもあるけれど)、一歩下がって歩く癖があるから余計そんな風に見えちゃったのかもしれない。

 

ただ、この「保護者」たちとのパワーバランスはとても崩れやすくて、3-4年経つと急にものすごく支配的になってしまう。「みっちゃんのことは何でも知っているよ」「みっちゃんはわたし/ぼくがいないと何もできない」と言って、わたしは出来るのに、あるいは、挑戦してみたいのに、全部やってくれて、障壁を取り除いてくれる。それはもうわたしは何もしなくてもいいくらいに甘やかされていた。当時のわたしはさっきのふたつの台詞をとても支配的だと思ったんだけど、いまならこの言葉を支配的に捉えてしまうのは憚られる。でも普通にしているひとに「君のいわゆる“メタ”的なメッセージがわからないから教えてもらえると助かるな、その発言をどのように受け止めて、どういう風に振舞えば君は気持ちいいですか」なんて聞いたら絶対に不愉快だろうし、ついに頭がおかしくなってしまったと病院に連れて行かれるのがオチなのでどうしても言えないジレンマにおちいっている。

 

それはともかくとして、関係の悪化についてはおそらく、最初の時点でゆるい主従関係が出来上がってしまっていて、それが色濃く出てきてしまっただけのことなんだと思うんだけど、イメージとしては「親」にとって「こども」はいつまでもちいさな「こども」というのに似ている。今日実家にひさしぶりに帰ってきて(フェレットたちも連れてきた)ブログを書いているんだけど、パソコンに向かっているわたしに母が「お風呂入りなさい」と声をかけたのもこんな感じだとも思う。相手のイメージは固定された関係性のなかではなかなか更新されない。ゆえに、この「両親」ではない「保護者」たちとの関係性というのはなかなか歪んでいて少し不健康だと思う。こうさせてしまったのはわたしのせいでもあるから、今後修正していかなければならないところであって、もう次は周囲から特定の友人を「保護者」と呼ばせないようになにか対策を取らなくてはいけないなあ、と思っている。

 

さて、これを書こうと思ってから少し寝かせている間に、分かるひとには分かるかもしれないけれど、今年の夏に(なにがどうしてこうなったのかいまだにまったく分からないけど)急に現れた人物がついこの間、ご本人は「後見人」であるということを話してくれた。ちょうどこの夏は「保護者」たちが遠のいていて、わたしは実質親のいないこども状態だったから、また新しい保護者が現れたような感覚だったけど、いままでの「保護者」たちとは決定的に違うところがあった。なにかをしてもらったときに対価を求められることがないのと、考えることや、やることを拘束されたり強いられたりしないところ。あと、選択肢を与えてくれるけれど、やるかやらないか、どれを選ぶかというところや、どれも選ばない、というあらゆる点において自由にさせてくれるところ。「後見人」についてご本人から話を聞いて、わたしはおつむがわるいからまだちゃんとよく分かっていなさそうだけどおそらく見守ることが主体のようで、確かに「保護者」ではないな。という風にいまは「後見人」という呼び名に落ち着いている。

 

「後見人」さんの話を踏まえたうえで、「保護者」という便宜上の呼び名についても冒頭の括弧書きで述べたように、再考しなければならない部分なんだと思う。本当は、彼らはどうしたかったのか。「指導者」だったのかもしれないし、「飼い主」だったのかもしれない。非常にわるい捉え方をすれば「ある程度思い通りになる人形を手に入れた」だけだったのかもしれない。そうじゃないことを祈るけれど。

 

まあ、どの言葉を選ぶにせよ、真相がどうだったにせよ、わたしにとって「保護者」たちはものすごくありがたい存在だった。当時どうしたらいいか分からなかったことをたくさん教えてくれたし助けてくれた。たとえ関係がゆがんでいたとしてもわたしには「保護者」たちしか頼れるひとがいなかった。そんなこんなで、わたしは面倒見られ慣れ、あるいは世話され慣れ、あるいは、飼われ慣れ、しているところも「保護者」たちがいなくなったいまちゃんと見直していかなくちゃいけない。健全な関係、というのもいまいちまだよく分かっていないけれど、とにかく時間をかけてゆっくり修正していこうと思う。