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ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

学生最後の冬

 

居間のテレビからお天気お姉さんの声が聞こえる。そっか、明日、雪が降るのか。講義、休みにならないかな。台所にジュースを取りに行ったら母さんが洗い物をしていた。

「祐介、ジュースの前にお風呂入りなさい」

「うん」

ぼくは「お風呂に入りなさい」という言葉がとても嫌いだ。でも、家族という集団で生活している以上、共有しているものを順番に使うことを強制されるのはある程度仕方ないことなのかもしれない。大学生生活も後少し。就職先も決まって、いよいよ一人暮らしへの道が見え始めてきたところだ、こういうことからも解放されて自分で自分のことをできるようになる。湯船に片足を突っ込みながら、どこでどんな生活をしようか、ぼくは妄想に浸かった。母さん、またあの入浴剤勝手に入れたのか。杉の香りが湯気とともに充満している。

 

あったかいお湯の中にいるとどうして目はどこも見なくなるんだろう。気づくと大抵、ぼんやりと空中に向いていて、電源を消し忘れたビデオカメラみたいになっている。いや、これは、空中を見ているのだろうか。視線を動かすと、色とりどりの「何か」がシャンプーとリンスの上の棚に置いてある。なんだろう。興味の方が勝って、ぼくはお湯から出た。静かだった水面がザバリ、と音を立てて、ゆらゆらと揺れている。四角くて、表面に緑と赤のギンガムチェックが印刷?されている。触るとぬるっとして、きっと石鹸なんだろうと思った。ぼくはその得体の知れない石鹸らしきものを元に戻し、適当に頭を洗い、ついでに歯も磨き、びしょ濡れのまま脱衣所に出た。あれ、タオルがないや。

 

「母さーん、タオル出してくんない?」

「あれ、なかったの?ちょっと待ってて」

 

すぐそこの台所から声がして、パタパタとスリッパが駆けていって、戻ってきた。脱衣所の扉がほんの少し開いて、タオルが差し出された。

 

「ありがとう」

「いいえ」

 

歯ブラシを洗面台のコップに立てて、受け取ったバスタオルでわしゃわしゃと髪を拭き、身体を拭いた。鏡に写った顔は無表情だった。これからいろんなことが自分でできるようになるというのに。スエットを着て、再び台所に行く頃にはジュースより牛乳が飲みたくなっていた。母さんはまだ洗い物をしている。

 

「ねえ、母さん。お風呂場のチェックのやつ、あれ、石鹸?」

母さんは水道の水を止めて、緑のビニール手袋を外しながらこっちを向いた。

「そうよ、デコパージュっていうの、石鹸の上に紙を貼るのよ」

「それって必要なの?」

「かわいいものは味気ない生活を変えてくれるのよ」

「またそんなこと言ってるの?」

「いいじゃない、かわいいものに理由なんかなくたって」

 

うまく噛み合わない会話をしながら、牛乳をコップにそそいだ。夕刊に駅伝出場校一覧が出ている。今年もうちの大学名が載っていた。

 

「今年もうちの大学、駅伝でるんだね」

「今回こそシード権とってほしいわね、応援しなくちゃ」

 

食器を拭きながら、母さんはあいかわらず楽しそうだ。来年の四月から、こんな会話もできなくなるんだろう。さっきまで早く一人暮らししたいと思っていたけれど、家を出るまではこのちょっと煩わしい生活を嚙み締めよう。牛乳が喉を通ってお腹に落ちていき、コップが空になった。テレビはお笑い芸人を映しているようだ。騒がしい笑い声が聞こえた。

 

  妖怪三題噺さま http://twitter.com/3dai_yokai
本日のお題は「物体」「学校名」「杉」でした。