ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

この間書いていたもの

 

わたしは何かを書くのには慣れていないし、さらに言うと、伝えたいことがあまり具体化しない。普段、考えるスイッチが切れている。ブレーカーを落としているみたいな状態。でも時々すごい人がいて、わたしの中から「わたしが書きたそうなこと」をスルッと引っ張り出してしまう人がいる。バチン!とブレーカーを上げられて電気が隅々まで行き渡り、普段浮かびもしなかったことが全身を駆け巡り、最終的には「生きているのが大変」に行き着いて次の日は大体起き上がれないほど疲弊してしまう。

 

極論、わたしが生きていることで人が死ぬ、というのがいま思い出せるキツい結論だった。今日食べたハンバーガー、飲んだコーラ、誘惑に負けて買ったチョコレート。その対価として支払ったお金が戦争の武器に使われたり、安賃金で子どもたちが奴隷のように働かされていたりする。わたしはわたしを生かすために、少しの幸福を手に入れるために、世界のどこかで誰かが苦しんでいる。最悪死ぬかもしれない。朧げな事実が確実にこころを蝕んでいく。人間は状態として恵まれていると生きる理由が見出せなくなり、死を想いはじめる。ものすごく贅沢で醜悪な姿。茶番のような苦悩の末に「アフリカでは3秒に1人、子どもが死んでいます」みたいな手垢のついた言葉に心動かされ、自分に何かできないかと奮い起つ。本当にそうだったとしてもアフリカに対して失礼な言葉ではないか。この時点でもうすでに、「弱者に手を差し伸べるうつくしい活動」という対等ではない扱いをしている。ハンバーガーを食べ、コーラを飲み、安価なチョコレートを楽しむわたしたちと彼らは人として何も違わないのではないか。そうだとすれば、なぜ彼らは酷い環境にいなければならないのか。わたしたちが買い求めるからだ。求めなくても、知らず知らずのうちに買っているのだ。無知なわたしたちが生み出してしまった「被害者」であり、気付けば「加害者」であるということ。加害者が被害者に「手を差し伸べている」だなんてちっとも笑えない。ちゃんちゃらおかしいとはこういうことな気がする。そしてわたしが自殺したとしても、それは止まらない。

 

 恐ろしい話なんだけれども、こういった類のことは知ってしまったらもう戻れない。知り続けていかなくてはならない。目を伏せ続けても幸福にはなれないが、見つめ続けても幸福にはなれやしない。どっちみち真っ逆さまで暗い縦穴を落ち続けていくしかないのだ。「知らない」ままでいるのが一番幸せでいられるただひとつの方法で、それを失くしてしまった。対処するには電源を落としておく以外の方法をわたしは残念ながら知らず、おまけに、不意に引き出されることによって結局は苦しむことになる。どんな理由があれ、ツケは払わなければいけないように。

 

 でも、だからどうだっていうんだ(so what?)という自分もいる。「大きな問題 (big issue)」を見続けて自分のことが疎かになるのも考えもの。「世界に思いを馳せる」のはいいけれど、目先のことが見えていないのでは仕方がない。今日冷蔵庫に食材がない、会社での仕事、友達との約束、公共料金の支払い…確かにわたしは誰かを殺しているかもしれない。でも同じくらい生きる人もいるのでは。何よりもまず自分を生かさなくては。

 

 ここまで書いて、手が止まり、そのあとにダメになってしまったのでもう書けません。

 

ブレーカーが上がったんです。

脳内はパンク寸前、壊れ始めています