ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

みっちゃんのゆがみ――不在のわたしと〈いい子〉

最近、ずっと考えているのは「自分の不在」について。身体やこころはそこにあるのに、自らを中心に据えることなく生きてきた。これが、もしかしたら、これが漠然とした欠落感――どうしても埋まらないこころの隙間やつくろえていない破れ目、なのかもしれない。不在になってしまった原因と思われる〈いい子〉というひととの関わりかたとどんなふうに変えていけるか、まだまだ方法がありそうなもの、思いついていないもの、なんかをメモしてみた。いろいろ雑多で、まだまとまっていないけど、いまのことを残しておこうかなって思う。

 

世界や相手がおそろしく見えるとき、それは自分がそのように見ているだけで、実際はそうではないことがようやく分かってきた。自分のなかにある「いい子にしていないと、認めてもらえなかった(〈いい子〉というのは、相手が気に入る/不快にならない自分でいること)」をいままですこしずつ、あらゆる誰かの言葉のなかから、そのように聞こえるものを抽出し、サンプリングし、再生しつづけ、自分にいくつも呪いをかけてきたせいでおそろしく見えていたみたい。ひやひやするのは、自分が見ている世界も「正しい」ということで、その「正しさ」を疑うことなく生きていると、本当はどうなんだろう、という鍵が錆び朽ちていくところ。一方で、〈いい子〉になりたくて他のひとが見ている「正しい」世界を見ようと躍起になっていると、自分では分かりえない「正しさ」をどうしても想像し推測し、為替予約するようになっていってしまう。そうして、自分が空洞化――自分のなかが為替予約でいっぱいになって、あるのにない状態、あるいは予約していても空振りして消化されないリスクによる不安(=ありもしない想像の産物)でいっぱいになる――していってしまう。〈予約〉の正体のひとつは、自分と他者の問題を取り違えていることなのではないかと思う。

 

〈いい子〉でいるということは、自分が持ちうる面のひとつひとつを不在にしていく。認めてもらうためには、頑張らなくてはならない――ママが、パパが、先生が、ともだちが、恋人が、好きなひとが、こう言ったから「こんな」わたしはそこにいてはいけない――と思っていて、いままでは「こんなダメな子」な自分を座席から追いやってしまっていた。でもそれって、本当に「自分のこと」を言っているのだろうか。ママが「お風呂にはいりなさい」って言うのは、わたしを先にお風呂にはいらせて安心したあとで、ママがはやくお風呂にはいって早く寝たいからかもしれないし、先生が「勉強していい成績とりなさい」って言うのはわたしがいい成績をとると先生自身が他の先生に評価されるからかもしれないし、ともだちが「きみってそんなひとじゃなかったのに」って言ったときは、以前のわたしと今のわたしのギャップにともだちがびっくりしたからかもしれない。「ママごめんね、早くお風呂入るね」「先生、わたしいい点取れるようにがんばります」「以前のわたしに戻っていままでどおり仲良くしようね」ってまるくしたはずなのに、なんだかモクモクと自分のなかで黒いものが育って無駄に疲れたり怖くなっていたりしていたのは、他のひとの問題を自分の問題とまぜこぜにしてきたからだと思う。他のひとの問題と自分の問題を混同するとどんどん複雑になっていって、もともとはどういう問題だったのかに立ち返ることがむずかしくなっていく。当たり前のことだけど、相手の言ったことや表情にビクビクして反射的に合わせる(怖いという気持ちに圧倒され突き動かされる)行動を取るよりも、他者同士であるということを認識しながら、その問題が個々にあるのか、それともふたりのあいだに横たわっているものなのか、精査し判断することで問題を膨らましてしまうことを減らしていきたい。(怖い気持ち、がなんで出てくるのか、どう対処したらいいのかはまた今度)

〈いい子〉というひととの関わりかたは、迎合する、ということなのではないかとも思うようになった。迎合というのは自分の考えを曲げてでも、他人の気に入るように調子を合わせること(goo国語辞書)。〈いい子〉でいると、自分の言葉や意志で話すことがなくなる。思い返せばさっき挙げた例みたいに、「そうだね」「うん」「はい、頑張ります」ばかり言っていた。相手の言葉を待っていて、その相手の言葉に合わせて動いていた。そうして頭のなかは相手の言葉で満たされて、そのなかで相手の言葉に疑問を持ったりしても、相手の言葉をルールにしていくためにすばやく黒いものを振り払う。でも黒いものは振り払って忘れても、澱となってしずかに積もっていく。でもうまく言葉にできない。モヤモヤするけれど、なんだか分からない。こうやって自分のなかで黒いものが沈殿していくのは、自分の思っていることや意志をむりやり曲げているから(=迎合しているから)、ともいえるのではないだろうか。「本当は○○したいのに」という気持ちがほとんどわからない(I can hardly grasp my will)状態になってしまうまで、無視してきた結果、自分がいない――不在であるという状況を作り出してしまったのだろう、というところまでたどりついている。

 

こんなわけで、わたしはまだ自分の「本当は○○したい」という気持ちや意志をとらえるのと伝えるのに時間をかけていて、ちょうどいい伝えかたを探している。わたしが求めているちょうどよさは、角が立たない/問題を大きくしないで自分がどうしたいのかを〈打ち明けていく〉といったところ、でもこのちょうどよさのなかに迎合が含まれていないだろうか、そもそもこのちょうどよさの要素ひとつひとつはなぜ必要だと思うのか、と点検にひっかかりそうな部分がある気がしてならない(角が立たない=思いやりのような認識があって、まず思いやりってなんだろうって思うんだけど、これはまた別で考えることにする)(あとは、念のため、迎合することがいい/わるいはまた別の問題でここではお話しない)。これはアサーションに該当するのかな。図書館でいくつかめくってみようと思っている。

 

「穏やかな対処」を選んでいるはずなのに、なんだか苦しい気がする、を減らしていきたいな。自分を不在にする方法は、塵も積もれば山となる、といった感じで見えづらいけれど、気づいたときにはとても代償が大きい。でも気づけたところからやっていくしかないから、こうやってひとつずつ点検していこう。なんでもこれからなんだ、まだまだできること/気づけることはたくさんある、とひかりのようなものを追いかけながら毎日を過ごしたい。