ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

愛は、対象a?ーーラカンの、言葉では語り尽くせない世界に絶望しながら

 

ジャック・ラカンという、わたしが最近知って、好きになりつつあるフランスの哲学者が考えていたことを、なぞることすらままならない状態で、ふわふわと思ったことをつらつら書いています。ちょっとむずかしいし、予備知識がないと読みづらいと思うのでとてもごめんなさいという気持ちです。とりあえず、対象aっていうのは「欲望の原因」のことです。(むりやり書く)

 

愛って対象aなのかな、と『生き延びるためのラカン』(斎藤環著、バジリコ(株)発行)を読んでいてふと思った。それは対象aについて例え話を著者がしている、この部分を読んだときに浮かんできたものだった。

 

もっとわかりやすい例としては、やっぱり「お金」がいいかなあ。お金への欲望というのは、本当にきりがないからね。この欲望は、あきらかに後天的に学習されたものだ。それが求められるのは、まさに僕たちにとってお金が「常に不足している」ため、「誰もが欲しがる」ために過ぎない。…そんなお金が一番リアルに感じられるのは、なんといっても、それが欠乏しているときだ。…不在であるときほど、もっとも強い効果をもたらすことができる存在ということで、「お金」は万人にとっての「対象a」と言えるかもしれない。

 そして、お金が一番「対象a」に似ているところは、それこそが「欲望の原因」である、っていうところかな。え?おかしいって?自分はお金のために働いているから、お金こそが究極の目的なんだって?…ただ僕は、「お金のために」云々という、いっけん合理的な言い回しが、実は資本主義社会がもたらした最大の幻想のひとつなんじゃないか、という疑いをどうしても捨てきれないんだ。

…僕たちの欲望は、「欲しい物」、つまり目標が存在するから生まれるんじゃない。「欲しい物を金でネットで買える」という可能性こそが、僕たちの欲望を生み出しているんだ。その意味では「もっとお金が欲しい」という言葉を「もっと欲望が欲しい」と解釈することもできる。

斎藤環著『生き延びるためのラカン

 

ちょっと引用しすぎちゃったかな。なにはともあれ、全てとは言わないけれど、これって愛に置き換えても似たようなことが言えそうな気がしたんだ。

 

愛は「常に不足している」し「誰もが欲しがる」ものだと言える気がしてならない。それに、愛が欲しくて恋人と睦みあったり、結婚をするわけじゃない。愛自体が欲望の対象にはなりえないんじゃないかな。それに加えて、愛は「それ自体は空っぽなのに、あるいは空っぽであるがゆえに、そこに僕たちのいろんな幻想を投影することができるスクリーンみたいなもの」、でもあると思う。(斜体部分は引用、ジジェクの言い回しとして本文内に紹介されている)

 

愛は幻想なしでは語りえない。「妄想する」なんてよくいうけれど、愛自体は実体を持っていなくて、目で見て、手で触れて、はっきりと説明することができない。人間が触れることのできない「現実界」と、考えることはできるけれど言葉でははっきりと説明できないものの世界「想像界」にまたがって存在していると思う。そして、大きくなったわたしたちが他者と関わるため、欲求や訴えを伝えるためにどうしても参入を余儀なくされている、言葉を使わなければならない「象徴界」ではとてもじゃないけれど愛の輪郭すら捉えることができなくて、絶望する。全能ではないと「父の名」において己の限界を思い知らされた結果が、これなのかと。

 

それでもやっぱり、わたしは恋人に「ココア作ろうか」と笑顔で提案されて、ニコニコと作ってくれて、わたしはマシュマロを浮かべたいとせがみ、それを一緒に飲むことで「愛されている」と感じたいし、息が苦しくなるほど抱きしめてもらって「愛」を貰いたい、と「妄想」する。わたしは愛自体が欲しいのか。どうして欲しいのか。愛を感じられる行為が欲しいのか。恋人が欲しいのか。愛は、一体、どこにあるんだろう。何なんだろう。知っているのに、知らないようで、触れたような気がするのに、触れていないようで、それでも確かに存在するから、途方にくれてしまう。ラカンの思想を知れば知るほど、ラカンの三つの世界のなかでわたしは生きてきたのだということが、着実に証明されていってしまっていることを実感した瞬間なのでした。おしまい。