ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

許された日

 

君は元気だ、と言われてきた。辛くてもがくのすら自分には許可されていないのだと感じて、せめてネットの世界でなら、個人的な日記のようなものなら、と思って2年前くらいからツイッターを始めた。わたしは両親や周りの人と戦うのをやめた。苦しみに共感してくれることなどないのだと諦めた。その代わり、共感を欲しがっている友人には惜しみなく与えた。

 

今月初旬に突然パタリと倒れ、食事もままならず、夜も眠れず、会社を休むことが増えた。仕事を普通に続けたくて病院に予約を入れた。お医者さんは言った。

 

思ったより深刻です。すぐに決めなくてもいいけれど、すこし会社休む?診断書書こうか?いろいろあったと思うけれど、もうつらい気持ちをごまかさなくてもいいんです、認めましょう。僕の目から見ても君は苦しんでいるし、元気ではないです。

 

いままでどこに隠してたんだろうという量の涙がボタボタ出てきて、急にいろんなことが分かってきた。本当は普通に生活できなくなっていたこと。自分を文字にして外側から見ていたのに、いつのまにか分からなくなっていたこと。いろんなことに本当は傷付いてきたこと。自分自身にケチをつける人の言葉を素直に聞いてきてしまったこと。

 

つらかったことは、本当はずっと前からたくさんあった。少しずつ思い出してきた。一番おかしくなっていた高校生の時、世界がビデオカメラを覗いたみたいな視界になっていた。いまはそれが戻ってきている。

 

今思えばいろんな人に比べられてきた。「あの子の方が薬漬けになっている、人前で腕を切っている、だからあの子に比べたら全然君なんか元気だよ。とても苦しんでいるとは思えない」「私のほうがつらいし苦しいからあなたなんか全然普通だよ大丈夫」もう言葉が出なかった。話しても伝わることがないのなら、もう言葉を選ぶ必要すらなかった。そうだね、が口癖になった。同意することで、彼らがわたしにそういった言葉を投げかけなくなることが分かっていたから。彼らと同じように自分の色眼鏡で人を見ていちいち評価することが無意味だと思った。

 

たまに、そうだね、という口癖を指摘してくる人もいる。でも仕方がないんだ。わたしにはわたしの物語があり、それを話す義理もない。わたしと話したくないのなら話さなければいい。それだけのこと。

 

もっと努力しろとけしかけてくる人も過去にはいた。ずっと前。自分が変わろうとしないと変われないんだ、と言ってあれこれ指南してくれる人がいた。まるで救世主のような顔をして、正論を叩きつけてきた。今なら言える。君の言っていることは正しいよ。でもわたしが聞くかどうかは別の話。わたしは君の自尊心を満足させるためにここにいて君の話を聞いてるわけじゃない。自分の物差しは自分の指標としか成り得ない。その精度は、自分で、自分のためにしか上げることしかできない。

 

いろんなひとがいろんなことを考え伝えてくる。そしてなかには、君のためだと言って非常に残酷なことをしたり、させたりする人もいた。わたしは随分前にどこかのネジが外れていて、それに気付けなかった。自分で外したのかもしれない。もう思い出すことができない。とにかく人とぶつかりたくなかった。笑顔で楽しく穏やかな関係を築きたかった。キラキラのほうへ歩いていくことをまだ、わたしは諦めていない。

 

帰り途の空が真っ青で、雲がふんわりと丸くて、夏らしい匂いがした    今日、わたしのかなしみや苦しみはようやく許された    民家の軒下に風鈴が揺れていた