ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

「君」という存在を見失うわたしについて、崩壊した言葉で

 

若干クズだが人間としてはまあ、テイレベル、というどこぞの皆の好きなアーティストの歌詞があるんですが、なんでしょう、まあ、そのくらいがいいんじゃないかとも思ってしまう。

 

世の中には下心的な好意を持って接してくれるひとがいて、それはなんというか、うれしいと感じられたのならハッピーですが、わりと気持ち悪いものです。実際。というのは、身体的および心的な繋がりを求めていない、そもそも繋がりってなんだ?わからない、という曖昧なもので、現時点のわたしでは説明しうるものではありません。悲しいことに。でも嫌。

 

お気に入りの「君」というのはすぐに消えてしまって、なんていうか、その、江國香織の『そこなう』のなかで主人公が愛して止まなかったはずの人物への「何か」が一気に崩壊していくような感じです。「君」はもうそこには存在しておらず、ただ「君」が入っていた肉体だけが今も生きていて、わたしは形骸的なアイを持ち続けていかねばならないというとても絶望的な状態です。そこに「いる」のに「いない」。わたしにとっては、もう君はA'であって、わたしが好きだった君、Aではない、すなわち、君ではないのに、姿形は君のままである。なんだかスワンプマンみたいです。

 

身体は、単なる入れ物、その入れ物だけをアイしていくことは可能か。ということにおいては、ノーです、そのカタチがお気に入りでない限り。だから、以前と同じように覆い被さる大きな身体にそっと腕をまわし抱きしめたとしても時すでに遅し、わたしは通過してしまった「君」への興味を失ってしまう。失念してしまいましたが誰かのブログに書いてあった「あの時のあのアーティストは失われてしまった、もうMP3でしか再生できない」といったように。

 

万華鏡のように変わっていく人の中身に、ああ、今日も君がそこに、その身体のなかに「いて」よかった、と会うたびごとに怖がり安堵し、その日限りになるかもしれない君への好きをどうか許してほしいと甘え怯えるわたしなのでした。結局のところ君は何がほしいの?という問いには、身体的および心的繋がりを求めない腕に抱き締められるのが一番安心します。とお答えします。中身が変わったのかそのままなのか怖がらずに済むから。フリーハグしましょう。おしまい。