ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

みんなの家

 

それは突然のことだった。ヌーベルに遊びに来ませんか。家主からのお誘いではなかったということに全てが終わったあと気付いた。わたしはとても軽い気持ちで、その時応じてしまった。きっと眠らなくちゃということで頭がいっぱいだったのだろう。いつでもこころは予想できないところに飛んでいく。

 

きちんと考えていなかったわたしは寝坊してタクシーに飛び乗っていた。ひかりを予防注射に連れて行くのに、なかなか起きられなかった。今日はホリデー、僕は起きないぞ…あと三回寝返りしたら…という歌の通り土曜日の朝を満喫しすぎてしまったのだった。愛くるしいちいさな生き物はキャリーの中でパタパタと音を立てていた。動物病院で爪を切ってもらい、首根っこに注射を打ってもらった。帰りのバスを待っていた時メッセージに気付く。急いで次自分が行く病院の時間を早めてもらった。

 

病院も薬局もとても混んでいた。心療内科の先生は動物を飼ってこころを通わすことはとても良いことだと微笑んでいたが、まだ減薬はしないという方針でいつもの通り薬を貰った。それすら気にならないほど、そのあとの予定をとても楽しみにしていた。早足で駅へ向かいヌーベル行きの電車に飛び乗った。千代恋先生が迎えに来てくれるのだという。

 

車窓から見える景色がすごい速さで変わっていった。下町からビル街を抜け、木々や草花の色が流れていく。電車を降りて駅のホーム、懐かしい山の匂いがした。わたしも結局は山の子なのだと思い知らされるようで心地よくも苦笑いを浮かべてしまう。胸いっぱいに吸い込んで歩き出す。改札を抜けると緑だらけの長閑な風景。視線を正面に移すと待っている風な四人。じゅんさんがニヤけているのが遠目でも分かった。野田洋次郎風な人が千代恋先生で、学校の先生のような人が誌長のちくわさん。眼鏡でデニムな人はその姿の通りメガネさん。まさか全員で来てくれるとは思っていなくて、もうすでに謎のあたたかさを感じていた。一通り大まかな挨拶を済ませたあと、先生が「みつさんはシャボン玉がしたいそうです」と一言。シャボン玉に疑問符を浮かべながらもみんなでコンビニへ。吹くのが一つしかなくて、先生とじゅんさんがストローを4本つけてもらっていた。店員さんも不思議な顔をしながら応じてくれていた。

 

ヌーベルに向かう途中の大きな公園で五人はベンチに上着を置く。暖かい公園日和。誌長がシャボン玉のパッケージを開けるのに失敗している。笑いながらじゅんさんが口を開く。

「なんでちっくんに開けさせたの」

「だって…キラキラした目で開けようとしていたから…」

先生が弁解をする間、誌長はくっついたボール紙とプラスチックと格闘していた。無事に開いたところで奇妙な五人はシャボン玉を吹き始める。初めて会ってものの5分くらいでシャボン玉。息を吹き入れるとガラス細工のようなシャボン玉は秋の光を受けてきらめきながらやわらかい風に乗って浮かんだ。シャッターを切る音がする。メガネさんは芝生に寝そべって大地を感じていた。和やかな雰囲気にまごついて、わたしはシャボン玉を吹き続ける。ベンチの奥には秋桜が咲いていた。サッカー少年や散歩をする親子の中に奇妙な五人は溶け込んでいた。

 

しばらくしてまた歩き始める。会話が絶えないことに驚きながら、いつ「ヌーベル」にたどり着くのか考えていた。そもそも「ヌーベル」ってなんだろう。公園を抜け、住宅街をカクカク歩き続けた先に青いアパート。一昔前若者のこころを掴んでいたであろう瀟洒な字体で、ヌーベルと書かれている。フランス語で「新しい」という意味なのだそうだ。ぞろぞろと吸い込まれる扉の先にはたくさんの靴。乱雑な部屋。銘々定位置につき始める。「きょうちゃんコーヒーいれて」「チョコレート食べる人!」「椅子もうひとつどこにある?」何もかもが自然に行われている。コーヒーをいれるのは千代恋先生のお仕事らしい。ここはみんなの家だから、と家主がこともなげに言う。驚くことに自分もこの「みんな」のなかに含まれていた。『菊と刀』ある?と聞くと、じゅんさんは文字通り本の山の中からすぐに見つけてきてくれた。普段なら縮こまっているのに気付いたらわたしも寛いでいて、椅子にポメラをのせてカタつかせていたり、テーブルの横に敷かれた布団に寝そべって本を読んだりしていた。そして飛び交うおしゃべりと笑いは全く止まらなかった。

 

しばらくして、お腹すいたね、と先生が言う。他のみんなはテレビの前に集まってコナンを観ている。何か買いに行きましょうか、と立ち上がると、いや、出るときはみんなで行くから…と聞いてまた驚く。この家の住民は基本的になにをするにも「みんなで」というのが当たり前らしい。家族ですらバラバラに行動するのが当たり前な生活を送ってきた自分にはとてつもなく楽しくて素晴らしいことだと思った。あと10分でコナンは終わるらしい。テレビを見るのも、買い物に行くのもどちらも良いらしい。ここでは至極当然のように全てが肯定されていた。生活のルールもなく、時間や起こっている事柄に全く縛られていない。わたしたちはコナンを観終えてから買い物に行くことにした。

 

またぞろぞろとみんなで家を出る。寒いね、秋は3日しかなかった、とかなんとか言いながら。何カレーを作るか話しながらスーパーでまた笑い転げている。バターチキンカレーに決まると、玉ねぎをカゴに入れ、ヨーグルトを選び、先生のチョコレートをたくさん手に取って、最後にはなくなりそうだったコーラとカメラの電池を買った。お店を出て、メガネさんは一足先に自分の家へ帰っていった。話しながらヌーベルに帰る。みんなで夕飯の支度。買ってきたたまねぎをたくさん切って、目にしみたとかしみない方法が、とか涙目になりながら、笑いながら。バターが使ったそのまま包まれもせずに入っていた。わたしは勝手に汚れた箱を捨て、銀紙をはがして切り分けラップに包む。それに気づいたじゅんさんは

「小分けにしてくれたんだね、ありがとう」

勝手にやったのに怒りもせず、これもまたこともなげに。ここではみんなが住みよいように行動することも肯定されているようだった。やれることを探しながら銘々が作業を進めていくなかで、「あ、米炊くの失敗したなー」「スプーンあと二本どこにあるー?」などと時折声が聞こえる。そしてテーブルに並べ終え、探し出されたスプーンが添えられた。写真を撮るのにすこし手間取って、そして何回も取り直して、カレーは冷め始めていたけれどみんなで手を合わせる。

「いただきまーす!」

誰もが笑顔で、キラキラした目で食卓を囲んでいるのはとても素敵な体験だった。おかわり用のごはんを炊き始める人、ニコニコしながらたくさん食べている人、おとなしくゆっくり食べている人。穏やかな時間。家族みたいだと思った。

 

食べ終わって煙草を吸いに出ると、部屋からギターの音が流れ始めた。車輪の唄だ。懐かしさやいろんなことが思い出された。そしてまた新たに今日の思い出が加わった。部屋に入ってひとしきり聞くと千代恋先生とじゅんさんのセッションが始まる。誌長のちくわさんとわたしは戸惑いながらお題を一つずつ交互に出して、歌ってもらって、また笑い転げていた。今日のことを忘れたくないとわたしは動画を撮り、動画が撮れなくなったら録音した。そしてそれを見て、聴いて、四人はまたお腹が痛くなるまで笑い転げた。

ふと終電の時間が気になって調べると、もうギリギリでないと間に合わないくらいで少し急ぎながら家をみんなで出る。暗い公園に着くと歩きながら歌を歌い、ギターを弾き、 遊具で遊び、このまま遊んでいたいと思ったけれどグッと我慢する。携帯電話をチラリ。あと五分。

 

改札に着いても帰りたい気持ちが負けそうになったけれど、何回か振り返りながらホームに走った。みんなはわたしが振り返る間ずっと改札の外側で見送ってくれていた。謎のあたたかさを抱えたまま、電車のシートに深く座る。家ではひかりが待っている。電車に揺られ始めてやっと、一刻も早くひかりに会いたいという気持ちになった。

 

迎えてくれる人、見送ってくれる人、家で待っていてくれるちいさな動物がいて、わたしはこころからうれしいと思った。そしていつまでもこの謎のあたたかさが温度を失わないことを祈りながら目を閉じた。