ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

マドレーヌ

 

実家にいた頃、あるパティシエの特集をテレビで見ていた。「マドレーヌはお菓子作りの基本なんです」看板も貝の形をしたかわいいマドレーヌだった気がする。おぼろげな記憶、彼の名前は失念。

 

思い立って哲学を学ぼうと図書館へ向かった。所狭しと並ぶ本が甘い香りを放ちながら静謐を守り続けている。いつの日もここは楽園だ。知を求める者に開かれた門。

 

大学で学んだ重要な物事のひとつは、体系的に学ぶこと。細分化された事柄も重要だがすべては何らかの形で繋がっており、大枠で見なければ木を見て森を見ずという状態になってしまう。そしてその木に固執し、知識や持論を振りかざす姿は非常に滑稽である。当の本人は気付かない。そうはなりたくないと思っている。

 

そして一様に、わたしが出会った「振りかざす」者たちは出典を大切にしていなかった。わたしはアカデミックな場において出典を非常に大切にしている。なぜなら、出典が明確ならば相手が何を意図していて、なぜその考えに至ったのかを知る糸口になり、新たな知識を得ることができる。広がりができるのだ。それから、何よりもその信憑性を探ることができる。

 

むずかしい用語をもちいて抽象的に話す者たちはとてもよく勉強している優秀なプレーヤーか、ただかき集めた僅かな知識を振りかざしているだけの傲慢な素人か、どちらかである。前者はただ単に教えるという術を持ち合わせていないだけだが、後者はその限りではない。彼らは扉を固く閉ざし、あたかも選ばれた人にしか開けないというようなイメージを作り、質問を嫌がり煙に巻く。当人たちは、本当は中に何もないということを十二分に分かっている。それを知られるのが怖いだけ。前者はいくらでも質問に答えてくれるが、残念ながら学び始めた者にはついていくことが叶わない。(こういう親切な大学教授はたくさんいた…)

 

どんな分野であれ、その道に明るく教えるのに長けている人たちはみな謙虚で、わかりやすい言葉と具体的な例を挙げて一生懸命説明してくれる。あらゆるテーマに触れ、知を授け、広がりを持たせてくれる。楽しそうに話す姿を見て、誇りを持っているのだと感じる。この人たちは森を見ているということが一目瞭然なのだ。そして、基礎を決して忘れない。簡単な部分、されど大切な部分をきちんと踏まえている。

 

「マドレーヌはお菓子作りの基本なんです」彼もまた、知への扉を少し開けて、求める者を招き入れる光の人なのだろう。

 

借りてきた木田元の『反哲学入門』を開き、その甘い香りを楽しみながらわたしは扉の奥へと進む。