ひかりのなかで

あたたかくて穏やか

さかのぼりアドベント12/6:好きなもの、写真機

こっそりこっそりさかのぼり。好きなものの話。

 

写真機が好きだなあ、と思うのです。今年の春か夏頃くらいから、なにで撮るかは別として、写真を撮るようになりました。それが、写真機を使うとさらに楽しくて。ISOだとか、シャッタースピードだとか、そういうのを一生懸命操作して、調整して、撮って。撮るものに波長を合わせていくのはなんだか素敵です。

はじめて触った一眼レフは、PENTAXでした。色がとてもきれいで、触るごとにどんどん魅了されて、自分のがほしいなと思うようになりました。撮られるよりも、撮るほうがすき。そろそろどれを買うか決めたいところ。

そういえば、iPhone用の接写レンズというのを贈られたときには夢中になりました。いつも見ているものが、撮影によってあたらしい見方ができる。接写の世界はとても繊細で、面白くて、あざやかで、生き生きしています。

一眼レフで圧倒的にすきなのはローアングル。撮れる写真もとても好きなんだけど、その撮る過程で地面にはいつくばって撮るのは最高にわくわくする。だって、普段地面に腹ばいにならない自分が、カメラを持っているとそういう大胆なこともできちゃう。ローアングルに関わらず、撮りたいものを撮るためならちょっと変な体勢にだってなる。カメラ持っていると、そういうところ(?)で自由になれて楽しい。

それに、インドアなわたしが外へ出て、ちょうちょを追いかけるような気持ちでどこまでも行けてしまうのも、自由だと思う。ふらりと外へ出て、歩いていける。インドアだけど散歩はすきだから、さらにぐんぐん歩けてしまう。不思議な感覚。

草花とか森とか空とか建物とか、そういうのを撮りたい。冬の景色も撮っておきたい。次の春が楽しみ。

 

好きなもの:愛用してきたシャープペンシルのこと

全然アドベントできていないんですけれど、今日こそ。(オフトゥンのあいつ、怒ってるかなあ…笑)好きなものというか、こだわってきたものというか、自然とそうなったものというか、そういう話をしようかなって。シャーペンへのこだわりのようなもの。(こだわっているのはおそらくシャーペンだけではないけれど)

 

わたしがペンケースにお気に入りを詰めるようになっていったのは、小学校高学年の頃からだったと思う。ちょうどPlay Colorという色とりどりの水性サインペンが流行って、女子はポーチよりも大きなペンケースにたくさんたくさん詰めて持ち歩いていたくらいの頃。あのとき、やけに細いシャーペンが雑貨屋さんで見かけられて、小物好きだったわたしは単純にかわいいという気持ちで、お年玉を使って買ったのがたぶんはじまり。

 

中学二年生くらいのときだったか、0.3のシャーペン(ぺんてる シャープレットFine(A223))を手にしてから、ノートに書くのがとても楽しくなりました。0.3の細い芯は劇的に字をきれいにしてくれた。丸字でペン先を器用に回して細く均一に書くのが苦手なわたしには、最初からちょっと細いほうが圧倒的に書きやすかった。シャーペンなのにキャップが付いていて、とってもかわいい。青い透明のボディーで、華奢で、もっているだけでもうれしかった。

 

それからすこしたって、製図用シャープペンのグラフギア500に出会った。当時一本1,000円したけれど、迷わず買って、それで、どうなったかというと、わたしはこのシャーペン以外では書きたくない!というくらいに惚れこみました。グラフギア500は持つ部分が重めで、安定感があって絵を書くのも楽しくなった。最高の書き心地。ラバーグリップみたいなものがなくてペンだこが酷くなったけど、他のシャーペンにはなかったその重みが心地よくてやみつきになっていた。ペン先が収納できなくて、シャープレットFineみたいにキャップもついていなかったから刺さりそうで危なかった。でも、大好きすぎて布製のペンケースからプラスチック製のペンケースに買い換えてしまった。そのあとグラフギア1000が発売されて飛びついたけれど、収納できるようになったペン先がわずかにぐらついて不安定だったから、すぐに500に戻った。グラフギア500はいいところもわるいところもたくさんあって、でもわるいところを自分でなんとかカバーしてつかいつづけたくなるほど魅力的なシャーペンで、高校、浪人、大学の半ばくらいまでずっと一緒だったと思う。

 

それからそれから、どうなったかというと、わたしはいま、ぺんてるのオレンズ(白)を使っています。0.2の芯で、さらに細くて、名前のとおり折れにくい。いまはこの子じゃないと手帳に書き込みたくないくらいに好きです。すばらしい細さ。芯が詰まりやすいから、急いでいるひとにはあまりオススメできないけれど、ゆったり使うひとは、手入れをするのも楽しいかなって。この子をヌーベルに忘れてきたとき、わたしは真っ先に文房具屋さんに走りました。なので新旧オレンズが手元にあります。旧オレンズがうちに帰ってきたとき新旧見比べたんですけど、やっぱりちょっと改良されているのを発見して、企業努力がすごいなあ、とか、とても関心したのを覚えています。

 

そのときそのときの最高なシャーペンがあるけれど、たまに引っ張り出してきて使ってあげると、やっぱりどれも最高だな、愛しいなって思う。これからシャーペンはどんな風に改良されていくんだろう。楽しみだなって。

さかのぼりアドベント12/7:グリーティングカードとOL

 

クリスマスが近くなると会社もグリーティングカードを出したりします。それで、就業時間中にカードを買いに行きました。文房具屋さんに。ちょっと迷いながら、やっとたどりついたところはディスカウントストアで、大量の文房具たちがちょっと安めに販売されているんですね。和風なデザインのカードを云十枚買うように命じられていたのでどんどん手に取る。買占め状態になってしまってなぜかちょっと焦りながら、お金を払って、領収書をきちっともらって、お店を出ました。

 

帰社のち、カードの準備。宛名シールを印刷して、カッターで丁寧に切っていく。それを封筒に貼って、封筒とカードがばらばらにならないようにゼムクリップで留める。それを云十枚。江國香織が、ちゃんちゃんと終わることが好きだ、と言っていたエッセイを思い出して、本当にそのとおりだなと思うおやつどき。掃除だとか、お裁縫だとか、こういう細々とした手作業だとか、ちゃんと終わるものは本当にすっきりする。宛名シールを切って、散らばるごみを紙製即席ゴミ箱にまとめて、封筒に貼って、それを効率化していくのをやっていると、なんだかとてもさわやかというか、晴れ晴れというか、そんな気持ちになれてちょっと泣きそうになってしまった。こういうのは、仕事というより、趣味だなあと思う。仕事だけど。趣味してお金もらえていると思うと、すごいことだ。

 

カッターでシールを切り出しているときの集中は、とても気持ちがいいものだから定期的にあってほしいし、ゼムクリップで綺麗に留めるのもすき。糊付けするのもなかなかいい。穴あけパンチとステープラーはなぜかちょっと疲れる。切って貼るのだいすき。そこにおいしいコーヒーがあったら、もっとすき。すきなものに囲まれているのは最高でした。

 

そういえば、12月といえば大掃除。ものすごく晴れ晴れできるんじゃないかとわくわくしています。ぴかぴかにできる系の掃除グッズを買い込みそうな予感。

アドベントカレンダーのこと

 

なんと、ちくわさんのところに来たアイツを、ちくわさんはうまいこと追い返したようです。

 

昨年、まんまとのせられうきうきアドベントカレンダーに参加したわたしですが、今年は"オフトゥンのあいつ"がきたので、はあーやれやれとか言いながらやるはめになっています。うそです。自分の意志でアドベントしております。

日記を書くということがあんまり得意じゃない、というか、記憶というものを完全できれいなものにしておきたいという厄介な願望があるせいで記録を残すのが苦手だったわたしがこうやってアドベントカレンダーでもやってみようかな、と思ったきっかけは写真をはじめたのも大きく影響しているんじゃないかと思っています。

写真を撮って、10年後の自分に今を残しておくことは自分自身への贈り物になる、というのを、まあ、「ほんとかなあ」とか思いながらですけど、うすうす分かりはじめてしまったんですね。それと、ブログ書け書け妖怪もいるので、なんとなく書いちゃうという…

ともあれ、残しておくのはたぶんいいことなのです。自分が変わったかどうかとかも見られるというか、なんというか。去年のブログとか見返していると、なんか変わった気もしないでもないのです。わるくないかも。おわり。

 

 

 

 

あの時期が来ましたよ。

 

…非常に曖昧な記憶なのですが 、12月になるといろいろ悩まされるそうなんです。エクレアの夢を見ているところ起こされたひとがいたんでしたっけ。バスタを友だちのようにいわれるひとがいたんでしたっけ。もやもやあんまり思い出せないのですが、まあそれはいいとして、わたしはゆっくりおやすむとしよう。みなさま!おやすみ!こんにちは12月!さようなら11月!また来年ね!はいおやすみぬくぬくまたあしたむにゃむにゃ。

……

………

 

ばさー!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

「うわああああさむうううううう!」

 

みつ  は  オフトゥン  を  ひっぺがされた!

 

「あああああああなんかこれ知ってる!!!!!!!!!」

『ほら、もー、忘れないでくださいよう!12月!12月ですよみつさん!!!』

 「その声は…もしかして.....ちくわさんのとこの.....」

 『話が早くて助かります、ね、ほら、君にはやらなくちゃいけないことがあるでしょ』

 「いやあ、それがですね、わたし、耳が痛いし聞こえにくいし、おまけにとても忙しいし、そんな余裕は残念ながらないのですよ、ちくわさんのところにお帰りいただきたく!ディッツェンバー!」
(※急性中耳炎という激痛な風邪を引いてロキソニンジャンキー)

 『ありません!!!みつさん、ねえ君、モチベ高いひとでしょ?ね?やるでしょ?アドベントカレンダー

 「やりましぇん!一年前のネタを掘り返さないで!!!」

『自分も掘り返しといてなにいってるんですか!!!書くんですよ!!!!!』

「わたしは寝るよ!!!!!オフトゥンを返して!!!!!!

『書ーきーなーさーい』

「わーかーりーまーしーた」

 

はあーやれやれ、というわけで雑で曖昧な思い出しかたで申し訳ないんですけれども、今年も始まりますアドベントカレンダーなるものが。あみめでぃあの新刊でも書く素材のひととか豪語してしまったし、みじかくてもなんとかアドベントしていきます。12月1日分でした。

 

みっちゃんのゆがみ――不在のわたしと〈いい子〉

最近、ずっと考えているのは「自分の不在」について。身体やこころはそこにあるのに、自らを中心に据えることなく生きてきた。これが、もしかしたら、これが漠然とした欠落感――どうしても埋まらないこころの隙間やつくろえていない破れ目、なのかもしれない。不在になってしまった原因と思われる〈いい子〉というひととの関わりかたとどんなふうに変えていけるか、まだまだ方法がありそうなもの、思いついていないもの、なんかをメモしてみた。いろいろ雑多で、まだまとまっていないけど、いまのことを残しておこうかなって思う。

 

世界や相手がおそろしく見えるとき、それは自分がそのように見ているだけで、実際はそうではないことがようやく分かってきた。自分のなかにある「いい子にしていないと、認めてもらえなかった(〈いい子〉というのは、相手が気に入る/不快にならない自分でいること)」をいままですこしずつ、あらゆる誰かの言葉のなかから、そのように聞こえるものを抽出し、サンプリングし、再生しつづけ、自分にいくつも呪いをかけてきたせいでおそろしく見えていたみたい。ひやひやするのは、自分が見ている世界も「正しい」ということで、その「正しさ」を疑うことなく生きていると、本当はどうなんだろう、という鍵が錆び朽ちていくところ。一方で、〈いい子〉になりたくて他のひとが見ている「正しい」世界を見ようと躍起になっていると、自分では分かりえない「正しさ」をどうしても想像し推測し、為替予約するようになっていってしまう。そうして、自分が空洞化――自分のなかが為替予約でいっぱいになって、あるのにない状態、あるいは予約していても空振りして消化されないリスクによる不安(=ありもしない想像の産物)でいっぱいになる――していってしまう。〈予約〉の正体のひとつは、自分と他者の問題を取り違えていることなのではないかと思う。

 

〈いい子〉でいるということは、自分が持ちうる面のひとつひとつを不在にしていく。認めてもらうためには、頑張らなくてはならない――ママが、パパが、先生が、ともだちが、恋人が、好きなひとが、こう言ったから「こんな」わたしはそこにいてはいけない――と思っていて、いままでは「こんなダメな子」な自分を座席から追いやってしまっていた。でもそれって、本当に「自分のこと」を言っているのだろうか。ママが「お風呂にはいりなさい」って言うのは、わたしを先にお風呂にはいらせて安心したあとで、ママがはやくお風呂にはいって早く寝たいからかもしれないし、先生が「勉強していい成績とりなさい」って言うのはわたしがいい成績をとると先生自身が他の先生に評価されるからかもしれないし、ともだちが「きみってそんなひとじゃなかったのに」って言ったときは、以前のわたしと今のわたしのギャップにともだちがびっくりしたからかもしれない。「ママごめんね、早くお風呂入るね」「先生、わたしいい点取れるようにがんばります」「以前のわたしに戻っていままでどおり仲良くしようね」ってまるくしたはずなのに、なんだかモクモクと自分のなかで黒いものが育って無駄に疲れたり怖くなっていたりしていたのは、他のひとの問題を自分の問題とまぜこぜにしてきたからだと思う。他のひとの問題と自分の問題を混同するとどんどん複雑になっていって、もともとはどういう問題だったのかに立ち返ることがむずかしくなっていく。当たり前のことだけど、相手の言ったことや表情にビクビクして反射的に合わせる(怖いという気持ちに圧倒され突き動かされる)行動を取るよりも、他者同士であるということを認識しながら、その問題が個々にあるのか、それともふたりのあいだに横たわっているものなのか、精査し判断することで問題を膨らましてしまうことを減らしていきたい。(怖い気持ち、がなんで出てくるのか、どう対処したらいいのかはまた今度)

〈いい子〉というひととの関わりかたは、迎合する、ということなのではないかとも思うようになった。迎合というのは自分の考えを曲げてでも、他人の気に入るように調子を合わせること(goo国語辞書)。〈いい子〉でいると、自分の言葉や意志で話すことがなくなる。思い返せばさっき挙げた例みたいに、「そうだね」「うん」「はい、頑張ります」ばかり言っていた。相手の言葉を待っていて、その相手の言葉に合わせて動いていた。そうして頭のなかは相手の言葉で満たされて、そのなかで相手の言葉に疑問を持ったりしても、相手の言葉をルールにしていくためにすばやく黒いものを振り払う。でも黒いものは振り払って忘れても、澱となってしずかに積もっていく。でもうまく言葉にできない。モヤモヤするけれど、なんだか分からない。こうやって自分のなかで黒いものが沈殿していくのは、自分の思っていることや意志をむりやり曲げているから(=迎合しているから)、ともいえるのではないだろうか。「本当は○○したいのに」という気持ちがほとんどわからない(I can hardly grasp my will)状態になってしまうまで、無視してきた結果、自分がいない――不在であるという状況を作り出してしまったのだろう、というところまでたどりついている。

 

こんなわけで、わたしはまだ自分の「本当は○○したい」という気持ちや意志をとらえるのと伝えるのに時間をかけていて、ちょうどいい伝えかたを探している。わたしが求めているちょうどよさは、角が立たない/問題を大きくしないで自分がどうしたいのかを〈打ち明けていく〉といったところ、でもこのちょうどよさのなかに迎合が含まれていないだろうか、そもそもこのちょうどよさの要素ひとつひとつはなぜ必要だと思うのか、と点検にひっかかりそうな部分がある気がしてならない(角が立たない=思いやりのような認識があって、まず思いやりってなんだろうって思うんだけど、これはまた別で考えることにする)(あとは、念のため、迎合することがいい/わるいはまた別の問題でここではお話しない)。これはアサーションに該当するのかな。図書館でいくつかめくってみようと思っている。

 

「穏やかな対処」を選んでいるはずなのに、なんだか苦しい気がする、を減らしていきたいな。自分を不在にする方法は、塵も積もれば山となる、といった感じで見えづらいけれど、気づいたときにはとても代償が大きい。でも気づけたところからやっていくしかないから、こうやってひとつずつ点検していこう。なんでもこれからなんだ、まだまだできること/気づけることはたくさんある、とひかりのようなものを追いかけながら毎日を過ごしたい。

 

誰だって甘い蜜を舐めたいに決まっている

 

「舐められる」ということについて、一晩考えてみた。思っても言わないことが良いという教育を受けて、さらにルールはルール、その意味を考えてはいけない。ただやるのみ。という正体不明の体育会系メッセージ(体育会系はなにも悪くないけど、わたしは「夕日に向かって走れ」みたいなのは言われたら不貞寝しないと機嫌が直らないくらい大嫌い)を両親から受けたとき、ものすごく長いあいだ反発して抵抗したけれどあまりの長期戦に体力が消耗していって動けなくなって、それ以外に道はないと思い込んだ。大人は強かった。不快なことがあっても、それは違うと思っても、それをわたしが訴えることはできない、もし訴えてしまったらひとは離れていく、衝突を避けることが一番の方法だと信じるようになった。

あのときから教えを律儀に守り続けた結果、いいように使われ、扱いやすいひとだと思われ、このくらい大丈夫だろうと高をくくられ、周りのひとはどんどんわたしの上に立つようになった。幸いにも、ボロ布同然だったわたしを別の見方で手助けしてくれたひとたちがいて、死なずに済んだ。幸運にも程がある。

両親はそれでもあの教えをまだ有効だと思っているから(他人がだまされるより、自分がだまされたほうがマシ、といった自己犠牲のかたまりのような考えかたをしている)、それを聞く機会を減らすことで自分のなかで強化されないように細心の注意を払っていかなければならない。

 

ラカンをなんども持ち出してきててそろそろうざったいと思うけど、象徴界にいながら、言葉で伝えようとすることを諦めつづけた結果がこれなんだと思う。ここにいるということは、言葉を使って他者に訴えていくことが求められているのに、しなかった。

 

言葉は基本的に無力だとわたしは思う。「さくらきれいだね。淡い色だね、ほのかな甘い香りがするね」っておなじさくらを見ながら相手に言ったって、相手が見ているさくらの色や香りはまた少し違っているかもしれなくて(これを確かめる術すらないんだけど)、自分の感想を伝えたところで、見えかたや感じかたが違えば分かち合うことなんて少しもできない。通じ合う、なんていうのは幻想なんだ。大きくなってお母さんと自分の区別がつくようになったら死ぬまで孤独で、共有なんて不可能なんだ。見ている景色、経験してきたこと、住んでいた場所、食べたもの、受けてきた教育、触れてきたひと、就いた仕事、身につけた知識、訪れた国、使ってきた物、時間の感覚、接してきたひと、話してきた言葉、色の数、温度、痛み――わたしが生きている世界と、あなたが生きている世界はおそらく、決定的に違う。だから、少しでも互いに寄り添うために、認識を擦り合わせるために、言葉を使うのかもしれない。

舐められているという現状は、ひとを遠くに置いて「自分の言ったことで相手が不快な思いをするだろう」という想像の産物を免罪符にして怠ってきたわたしへの、罰なんだ。